誠和造園の庭

〝庭づくり〟と〝庭育て〟

暮らしを愉しむ雑木の庭

私たちの考える庭は、暮らしの一部だと考えています。
家の中から眺めるだけの庭ではなく、アプローチから家へ、家から庭へと、住まいの一部としてつかうことを前提に、すべての繋がりを大切にしています。

見た目の美しさだけではなく、
暮らしの一部として使えること。

使い勝手のよいものは美しい。あらゆるモノやコトのデザインにも同じことが言えるかもしれません。
私たちは、窓から毎日のように目にする景色が美しいのはもちろん、庭も日々の暮らしの一部として使う場所であることを前提に、庭の設計・デザインをしています。

「何もない」というぜいたく。

雑木の庭は、華美でなく何気ない景色だからこそ、飽きの来ない空間が生まれます。咲き誇る花々は少ないかもしれないけれど、木々を揺らす風や、日差しを受けて呼吸をする草花の息づかいで、季節のうつろいが一層くっきりと感じられる瞬間があるでしょう。

「考える」ということ。

私の幼い頃の記憶に「里山の思い出」はありません。育ったのは都心にほど近い、アスファルトばかりの住宅街。年に一度、家族と行く鳥取の祖父母宅は海沿いだったので、思い出は海や田んぼの水路で遊んだことばかりです。
幼い頃、父が造園業を始め、やがて自分も同じ道を志したとき、ご縁をいただき平井孝幸氏の石正園で修行させていただくことになりました。
私が里山や雑木林の風景を意識し始めたのは、その時が初めてでありスタートでした。

私が常に大事にしているのは「考える」ということ。

違った角度から見ると、常に自分との葛藤のような気がします。
思考の中でのアイデア、意味、その礎となる部分は自分が今まで培ってきた経験や知識の上でしか考えられません。現代はネットや書籍を始め、情報を得るには困らない時代です。
しかし、思考の部分においては肌で感じた経験がとても大きな比重を占めていることを感じます。庭作りに携わって20年、「考える」ことは、自分の知識を高めることでもあり、経験を積むことだと肝に銘じるときがことさら増えてきたように感じます。

最近、特に気になっているのが「子ども目線」です。大人になったら忘れていたあの感覚。わざと水たまりに入る、登らなくていい塀や石垣に登る、友だちよりも長い枯れ枝を探す、叱られるような場所に穴を掘る、靴のまま川に入るなど…。
数え切れないほどのバカバカしい試練を自分に与えていた当時の感覚は、今となっては再現不可能なワクワク感に溢れていました。今、庭でそんな空間が創れないかな、と考えています。大人からすると癒やしの空間でありながら、子どもから見るとワクワクする挑戦の溢れる場所であったりすること。ひいては、大人もどこかでワクワクしているはず。
そこを必死に「考える」ことで、自分もワクワクを共有したいのかもしれません。
環境はこれから先も大きく変わり、生活スタイルも変わっていくでしょう。もちろんその中で庭も変わりますが、自然に対する思いの根っこは変わらないと信じています。そして、その時代に合った庭をワクワクしながら創っていきたいと思っています。

(建築資料研究社「庭」202号『ニューウェーブ』より抜粋)